「英国万歳!」マークの特別メッセージ 和訳

こんにちは、そしてアラン・ベネットの「英国万歳!」NT Live ストリームにようこそ。この作品は、2年前にノッティンガム・プレイハウスが製作し、僕がジョージ3世として主演しました。

ええと、この舞台について話せることは? …僕の成し遂げた最も誇れる仕事の一つです。非常に短い公演で1ヶ月にも満たなかった。でも多くの意味で僕にとても大きな影響を与えていると思います。並外れた役柄と舞台。(作者の)アラン・ベネットはいつだって僕のヒーローでしたし、(舞台のオリジナルキャストであり映画版で主演の)ナイジェル・ホーソーンや(ロンドン再演で主演した)デヴィッド・ヘイグらの足跡をたどることは、大きな挑戦であると同時に、とてもハラハラするものでもありました。

アダム・ペンフォードに呼び出しを受けた時、僕は彼と”The Boys in the Band”をやっていました。僕はやっかいごとに巻き込まれると思っちゃって…なんでかわからないけどね(笑)、彼はノッティンガム・プレイハウスを引き継ぐにあたっていくつか責任があると言っていて、そのうちの一つは、もしアダムが職を得たら、僕がジョージ3世を演じるということでした。それがすべての始まり。でも「イエス!」というのは簡単で… チャールズ1世やジョージ4世を演じたことはあった。だから王様を演じるのが好きだし、そこに身をおくのは面白い。しかし、この物語は特別なものがあって、このとても優しい男のゆっくりとした崩壊を描いてる。

この題材がアラン・ベネットのような繊細で思いやりのある才能を描いたのは偶然ではないと思います。アランは劇中の前書きで、ジョージはどちらかというと冴えない王様だと思って育ってきたと書いていて…それが彼の心に訴えてくるんだと思います。農民王であろうとした男の根底の良識がそこにある。彼は国民の一人であろうとし、君主制を近代化しようとし、そして恐ろしい試練に襲われるんです。結局のところ、それがすべてを一変させるのであって、王様だからということじゃなく、個人的な発見と恐怖の旅なんだと思うんですね。

とにかく、この公演でデブラ・ジレット、エイドリアン・スカボロー、サラ・パウエル、ルイーズ・ジェイムソンといった人たちとともに参加出来て素晴らしかった。楽しかったし、僕らは本当にトランスファーしてもう一度やれたらとずっと願ってる。もちろん、公演期間半ばでNT Liveをやり遂げて、あれは恐怖そのものだったけど、とても上手くいって誇りに思っています。そしてあなたに一週間楽しんでもらえる。

NT Liveはこれらの作品を毎週木曜日、一週間ストリーミング配信しています。ご存知の通り、今、演劇界は危機に瀕しているので、将来このようなショーを可能にするために、あなたができることはなんでもしてくださいね。
最後にもう一度。この役を演じ、この素晴らしいカンパニーの一員になれて光栄でした。みなさんに楽しんでいただけたらと思います。What what!

「英国万歳!」イントロダクション和訳

アラン・ベネット(劇作家)「大学で歴史を学んだので、ジョージ3世のことは少し知っていました。そして、摂政危機と呼ばれる、最初に精神病の症状が出た時のことや、それがのちに再発するものの比較的短かったことも知っていました。ある意味、それは劇作家への贈り物で、始まりと中間と終わりがある。私は筋立てが得意ではないので、個人的に、プロットがすべてそこにあるのはありがたかったのです」

(稽古場風景)
ジョージ3世「余は其方のリンカンシャーの気のふれた患者ではない! 都会の、都市の、お、お、王家の…」

マーク・ゲイティス(ジョージ3世役)「素晴らしい芝居だし、もちろん輝かしい役です。アランは僕の子供時代から大きな影響を与えてくれました。特にこの芝居のアランの意見と歴史的記録と人間的な物語のコンビネーションが気に入っています。

【世界がひっくり返った】

アーサー・バーンズ(歴史家)「ここが王室図書室です」

【王室図書室 ウィンザー城】

アーサー「ジョージ3世に関連する資料の中から、あなたに見せたいものを選び出してみました。これらはすべて現物です」
マーク「すごい」
アーサー「ジョージの病について少しと、人としての彼について語っているものです」
マーク「素晴らしい」
アーサー「複雑なキャラクターですからね」
マーク「急にすべてがとても生き生きとして現実的になりますね」
アーサー「これらの文書を見ると、劇中で響くフレーズに出くわすことが多いのが印象的です」

アダム・ペンフォード(演出家・劇場芸術監督)「当時、ジョージ3世は狂人だと思われていましたが、何故かはわかっていなかった。のちに、王の尿が青かったことからポルフィリン症のせいだと言われるようになりました。最近では、ある種の神経衰弱と見られていますが、若い頃のジョージは、かなりの自然体だったという説があります。君主になるために家庭教師から教育を受けた際には、もっとしつけがよく厳格になるよう教わったんです。そして現在は、おそらく長年の抑圧が原因で精神的に衰弱したと考えられています」

「ベストを持ってこい!」

アーサー「これは目を見張りますよ。最悪な治療について淡々と記述したものです」
マーク「『夜間、陛下は落ち着きなく混乱した状態になり、ベッドから飛び起きて、他に随分と動揺していた。朝の5時頃になると、陛下は制御出来なくなり、ベストを着用しなければならなくなった。』ここが僕のお気に入りだ。『両足は縛られ、胸の上で拘束されており、朝のお見舞いに伺うと陛下はこの憂鬱な状況の中にいた』」

アダム「君主制はその性質上、演劇的なものです。王族は表現を与えてくれる。劇場、音楽、衣装、小道具、演出、すべてが象徴になるんです」

アダム「ノッティンガム・プレイハウスのホワイエにいます。子供の私が1980年代、初めてパント劇を見に来た劇場です。観客席はかなり大きく、すべて取り付けると770席になります。ノッティンガム・プレイハウスはプロデュース劇場で、それはほとんどの作品を実際の劇場の中で、自分たちで作ることを意味します。私たちには、最近では多くの劇場が持っていない製作部門があります。それに衣装部、小道具部、大道具部、そしてそれらの仕事をこなす高い技術を持ったスタッフがいます。背景のいくつかは、セントポール寺院の位置の特定に役立ったカナレットの絵画を基にしています。そして公演は舞台となった摂政政治時代の織物から作られたものではなく、プリントされた幕で始まるのです」

「小道具部にやってきました。この部屋は大好き。いつだって見ていて楽しいものがあります。パント劇のネズミ…生首は役者の一人がモデルで、『復讐者の悲劇』で使われていたと思います」
「ジョージ3世は私たちにとって大きな公演です。大勢の出演者に、多彩な場面…平均的な芝居よりはるかに多い。ありがとう、アラン・ベネット。シェイクスピア劇に似てなくもないですね。大規模な共演の宮廷シーンかと思えば、次の瞬間にはもっと親密で家族内の2人のシーンにまで小さくなる。

王妃「言いたいことはないの、陛下?」
ジョージ3世「何を言えと? 結婚して28年、一度も離れたことはなかった。1日さえも。そして余を苦しめる奴らに捨て置いたんだ。恩知らずめ!…それが言いたいことだ」

デブラ・ジレット(シャーロット王妃役)「確かに男の世界ですね。彼女の立ち位置は結婚している相手のそば。王妃はかなり怒りっぽいと思います。人が彼女をどう思うかちっとも気にしていない。それがあったからこそ、彼女はこの世界で長く生き延びることが出来たのだと思います。彼女には数人の親しい友人がいて、(サラに向かって)劇中ではあなたが唯一の友人」
サラ・パウウェル(レディ・ペンブルック役)「第一女官は非常に特権的な役割です。彼らは温厚で、多くの問題を解決しています」
デブラ「世話焼きで感情的な知性も持っているんです。深く考えていて…」
サラ「それに王妃には子供が15人! 15人ですよ! 彼女って身体的に…」
デブラ「小さいけど強いの」
サラ「身体的にとても強いんだわ!」

アーサー「これは王妃が受け取った手紙で、こちらの手紙は王妃から王へ送られた完全なる普通の手紙なので選びました。手紙は『Sir』で始まりますが、その後は…」
マーク「『陛下のお手紙の到着に1時間前の私ほど喜んで驚いた者はおりません。水曜日夜にご帰還の陛下を抱きしめお喜びするのを苛立ちながらお待ちしております』
口述的な手紙ですが、ジョージと入るところには陛下と書かれていますね?」
アーサー「ええ」
マーク「素敵だな」
アーサー「締めくくりもいいですよ」
マーク「『陛下の最も愛情深く愛着のある妻、シャーロット』」

王妃「ジョージ、息子を摂政にする法案が準備されているの。私の言うことが分かる? あなたの代わりに統治するために!」
王「摂政?(笑) 太った息子か。いやいや、ありえない」

マーク「『世界がひっくり返った』と言う言葉は味わいがありますね。それに当然、それは定期的に起こる。安定があって、それから帝国は崩壊。そしてすべては争いとなる。チャンスはないと思っていた野党が垂木の中に身を潜めて襲いかかる準備をする。ウェールズ公は王になりたくて仕方ない。すべてが変わろうとしている」

アダム「私がこの作品を書いた1990年、明確な権力はウェールズ公にあった。彼曰く『皇太子は紳士の職業だ』。そしてチャールズ皇太子にも言えることだ。1990年も現在も」

ジョージ3世「いやだ、いやだ…」
王妃「ダメよジョージ!」

アラン「誰かが最近、この芝居を完璧なブレクジットのメタファーだと表現しました。ブレクジットは私たちの国民的神経衰弱、そして王は国家を体現している」

マーク「まるで数年前の国民投票前のよう。1週間ニュースが溢れかえっていた。驚異的でしたね。頭がクラクラして、毎日何かしら起こっていて(笑)『お願いやめて!』って言いたくなる」

ドンマー・ウェアハウス「コリオレイナス」観劇記録(2013年12月16日)

以下の記事は2014年4月に投稿した、管理人の個人ブログから転載・編集したものです。
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いよいよ「コリオレイナス」の上演時間が近づいて来ました。

まず、チケットをピックアップしにDonmar Warehouseへ。
郵送も出来たみたいなのですが、なくすと怖いので、私はBox Officeに取りにいくことにしています。

1年と8ヶ月ぶりくらいのドンマーでの観劇です。
初めてドンマーで見たマークが出演していた“The Recruiting Officer”も、同じ芸術監督のJosie Rourkeによる演出。
前回は一階席(Stall)でしたが、今回は人気公演ということもあり2階席(Circle)。チケットを確保出来ただけも奇跡です。

「コリオレイナス」はシェイクスピアの書いた最後の悲劇です。
隣国ヴォルサイとの戦いに勝利したローマの将軍ケーアス・マーシャス(後にコリオレイナス)が
帰国後、英雄として称えられ執政官に推挙されるものの、
その傲慢さ故、彼を疎む市民を利用した護民官の策略によって、
反逆者としてローマから追放され、ヴォルサイに潜伏し祖国への復讐を誓うという筋書きになっています。

映像作品としてはレイフ・ファインズ主演の現代版コリオレイナス=「英雄の証明」が一番手に入りやすいので、
予習の一つとして鑑賞するのもいいかと思います。

この公演が初めてアナウンスされた時、
コリオレイナストム・ヒドルストン、その友人のメニーニアスマーク・ゲイティスが演じる、
というところまで発表されたわけですが、随分若い配役だな、と思ったものでした。
特にメニーニアスなどはほとんど老人から壮年に近い役者が演じる役のように思えていたのです。
ですが、見終わった後は、そんな違和感はいつのまにか消えてしまっていました。

ーーーーーこれ以降はストーリー・演出の内容も含みます。戯曲未読の方はご注意下さい。ーーーー


客席に入り、舞台を見ると、セットは中央に黒い梯子、
背景に赤いコンクリートの壁、装置は複数の木の椅子のみとシンプル。
日本の舞台でも、椅子を塹壕や足場に見立てるという表現に慣れ親しんでいるので、
この装置演出自体はスッと受け入れられるものでした。

序盤の戦場の場面では火花や黒い煤が天井から飛び散り、
プロジェクションマッピングも使用されています。
火花は小さいですが、落ちた瞬間は暗い劇場の中がパッと明るくなるので、
その瞬間の様子はフラッシュのように鮮明に頭に焼き付きました。
“The Recruiting Officer”の演出が非常に真っ当というか、奇抜なものではなかったので、
この作品は演出家として挑戦的に試行錯誤したものだったのではないかと思います。

物語の始まりは、マーシャスの息子が、
赤いペンキで、舞台上に四角い枠を描くところから始まります。
(この枠が後の場面で部屋の壁を表したりするのです。)
その後、演者が四方から登場し、正面を向いて一列に並ぶと、一斉に舞台後方へ振り返り
観客から見えるところで椅子に着席。
その後は、他の人物の台詞から名前が出ると、
その役者が立ち上がり、前に歩み出て役に入り込みます。

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特に今回楽しみだったのは、メニーニアスが市民の反乱を胃袋とその他の臓器に例える小咄の部分です。
きっと面白可笑しくしゃべってくれるだろうと思っていましたが
お腹をポンポコ叩いたり、ウエストコートの裾をペロっと捲らせたりしながら、
身振り手振りを使って楽しく聞かせてくれました。

そして、その後登場したトムヒ演じるコリオレイナスは美しく、茶目っ気があり、
まさしく彼らしいスター性を感じさせます。
戯曲を読む分には、コリオレイナスは自己中心的で傲慢な軍人という印象がありますが、
彼の演じるコリオレイナスは若いということもあって、
その若さゆえの向こう見ずさという一面も加わっているようです。

茶目っ気という点では、武功をあげて帰ってきたコリオレイナスが、
周りに推されていやいやながら市民から執政官となるための推薦状をもぎ取る場面が特に見所です。
この作品は悲劇ではありますが、コミカルに演じられて少し息抜きになる部分でもあります。
またコリオレイナスが独白をするたびに、周りに語りかけるように天井を見上げて喋るので、
劇場で見ているとついつい「トムヒが自分に向かって喋りかけている!」と錯覚してしまいます。
いや、錯覚ではないと信じたい!(笑)

また、批評で”2人の描き方がゲイっぽすぎる”と方々で見かけた、
コリオレイナスとハドリー・フレイザー演じる宿敵オーフィディアスの関係。
ヴォルサイに潜伏するコリオレイナスと再会した時のオーフィディアスの歓迎ぶりが、
殺すのかと思いきや、ナイフを構えたままキスの嵐を浴びせかける様子が余りにも愛に溢れ過ぎて(笑)
「ここか例の部分は…」と理解しました。
戯曲でも仇敵という関係を超えた友情の態度を見せ合う2人ですが、
この過剰なまでの愛情表現は客席へのサービスでしょうか…。

ハドリーさんは「レ・ミゼラブル」のマリウス役でデビューされてから
ミュージカル俳優としても知られる優れた役者でいらっしゃいます。
オーフィディアスにしておくには勿体ないですね。
後ろで座ってる時間が長いし…。勿体ない。

観客へのサービスといえば、戦いから戻ったコリオレイナスのシャワーシーン
見る前から既に話題になっていたので、そういう場面があることは知っていたのですが、
実際見たらちょっと照れくさくて笑ってしまいました。劇場の中でも若干クスクス笑い声が…(笑)。
シャワーというか、打たせ湯って感じ。
しかし、傷の痛みを堪えながら血まみれの体を洗い落とすトムヒの演技は素晴らしかったです。

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メインの役者だけでなく、脇役の演技も触れないわけにはいかないでしょう。
コリオレイナスを尊大に育てあげた母、ヴォラムニアは、
映画「英雄の証明」のヴァネッサ・レッドグレイヴの演技が強烈に印象に残っていたのですが、
デボラ・フィンドレーも、非常に力強い母親像を演じていました。
ヴァネッサは、コリオレイナスが追放された後も相変わらず強気な母親であった一方で、
デボラの演じた母は、まとめていた髪を下ろし、物腰も少し柔らかくなって疲弊した母親。
もちろん息子を正しい道に導こうとする強固な姿勢は変わりませんが、
彼女の様子から、その後の一家のローマでの扱われ方がなんとなく想像出来るのです。
(私の中でデボラは今でもグラナダ版ホームズ「ボール箱」の腹の立つ次女というイメージですが・笑)

妻のヴァージリアはデンマーク出身のBirgitte Hjort Sørensenが演じています。
母よりむしろこの妻の方が切れ具合が痛快でしたね。
戯曲のイメージだと、ひたすら打ち拉がれているような雰囲気なのかと思いきや、
夫のコリオレイナスを追放した護民官に食って掛かるところなんか、
暴走列車のようで面白かったです。

護民官については、ドンマー版の興味深い部分として、
護民官のシシニアスが男性ではなく、女性のシシニアとして描かれている点が気になりました。
どういった解釈で”彼”が”彼女”になったのかは分かりませんが、
(どこかに書いてあったかな…)
男性のままのブルータスとの恋愛関係もはっきり描かれていました。
カップルにすることによってブルータス&シシニアの強固な関係を示したかったのかもしれません。
この二人は、この舞台の中でもとてもユーモラスな存在で、メニーニアスとのやり取りも軽妙でした。
ヴォラムニアから散々罵られた後、ブルータスの言う
「なるほど…じゃあ(行く方向を指差して)行きます」の台詞なんかは笑ってしまいます。

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後から気付いたのですが、コミニアスを演じていたPeter De Jerseyって、
映画「バンク・ジョブ」やドクター・フーの”The Day of the Doctor”にも出ていたんですよね。
見覚えがある人なのに初めてみたような気分で見てしまっていた…。
コミニアスはこの作品の中で一番気分にムラのない、まともな?キャラクターに思えます。
国に対して忠実ですし、コリオレイナスに対しても常に敬意を持って接します。
議事堂内ではメニーニアスとコショコショ内緒話をする姿が目立ちました(笑)。
2人で何を喋っているのか気になる…。

コミニアスは、ヴォルサイの将軍となったコリオレイナスにローマへの進軍を止めさせようと説得を試みますが、
故国に捨てられたコリオレイナスは断固として進軍を止めようとはしません。

私が最も感動したのは、コミニアスの帰還後、護民官に説得されてメニーニアスがコリオレイナスに会いに行く場面です。
コミニアスが追い払われたことで自分も追い返されるかもしれないと、渋るメニーニアス。
「でも、食事前の機嫌の悪い時に会ったのかもしれないしな」と複雑な表情を浮かべながらもなんとか重い腰をあげます。

正直、戯曲を読んだ後、この場面は「コメディみたいにならないのだろうか?」と思っていました。
時に厳しく、友人として、父代わりとしてコリオレイナスを諭して来たメニーニアスは、
“愛する息子”が自分を歓迎しないはずがないと断言するのですが、
信じようとしないヴォルサイの衛兵たちに追い払われようとされているところで、コリオレイナスが現れます。
メニーニアス「おまえたち、今に見てろ!」と親が迎えに来たいじめられっこのような台詞を吐くのですが(笑)
コリオレイナスは彼に「失せろ」と言い放つのです。

文字でこの部分を読むと、勘違いしてたメニーニアスがひどく滑稽に見えてくるのですが、
私たちが目にしたのは、愛するものを失ったことに深く傷つき、絶望的なまでに悲しむメニーニアスの姿でした。
跪いてコリオレイナスの手を取り、涙を拭いながら祖国を救うよう懇願したにも関わらず拒絶されたメニーニアス。
彼の顔からは色が失せ、肩をがっくりと落とし、立ち去りながらコリオレイナスから受け取った手紙をハラリと落とします。

マークの生の芝居を見たいがためにまたドンマーにやってきた私は、
こんなにも胸を打つ芝居をする人なんだと心をさらに鷲掴みされました。
彼はコメディアンとして舞台経験は何度も踏んでいるはずですが、
コメディ以外でも経験を積む程に舞台役者として成熟していっているように思えます。
彼は単なるキャラクター俳優ではないのですよ!

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本来の戯曲通りであれば、この後にヴォラムニアが義娘と孫を連れて息子に会いに行き、
ついにコリオレイナスがローマとの和睦を約束した後、
メニーニアスとシシニアスが母上の説得を待っている場面が入ります。
しかし、ドンマー版では母上がコリオレイナスの説得に成功し、
ローマへと帰った後にすぐオーフィディアスたちに裏切り者として捕らえられます。
そしてそのままエンディングへ。

ドンマー版の脚本は、端役の会話等をあちこち大胆に削っているのですが、
どれも確かに無駄に感じられる部分なので、
この改訂も、メニーニアスの出番が減ってしまったものの、納得の行くものだったと思います。

エンディングはとてもショッキングですが、実はこの前に見た”Mojo”でも同じような光景を目にしたので、
「最近は○○されるのが流行ってるのか?」と思ってしまいました(笑)。

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見終わってしばらく経ってから振り返ってみると、
このドンマー版は、シェイクスピア作品の古典としての芸術性よりは
エンタテインメントに徹して作られているように感じました。
もちろん、民主主義と独裁主義の対立、またそのどちらも実は残酷な政治体系であるということが根本に描かれていますが、
先に書いたように、数々のサービスシーンや、狭い空間の中で使われた演出上の試みは、
見る者をまず刺激しようとする意識が汲み取れます。

観客は年配の方も少なくなかったですが、
やはりトムヒを目当てに見にきた若い世代にも、(私のような異国から来たものに対しても?)
敷居を低くする意図があったかもしれません。
実際、見終わった後、想像よりも受け入れやすい作品だと感じられました。